歴史というのは好きな人間にとって雑学の宝庫とも言えるでしょう。その中でも人気の戦国時代。実際には「戦国時代」というのはないんですがね。「真田信繁」が「真田幸村」で浸透しているのと同じ感じでしょう。
両軍は豊臣軍
さて関ヶ原で戦ったのは「東軍」「西軍」です。何故か。実は厳密に言えば両軍は「豊臣軍」なのです。
豊臣政権下では五大老、五奉行というのが政治の中枢にいました。彼らが関ヶ原の戦いの中心的な大名です。
西軍の総大将は宇喜多秀家であって石田三成ではありません。毛利輝元は参陣すらしていません。
東軍の総大将は徳川家康であります。結果は言わずもがな東軍の勝利なのですが、ではなぜ徳川軍ではないのか。
家康は「上様」ではない
家康が征夷大将軍になり幕府を開くのは1603年のこと。それまで彼は一応、豊臣家の家臣という体裁です。
五大老の筆頭で権力的には徳川家がNo.2ですが、あくまで五大老・五奉行の合議制でしたし、西軍にも五大老がいますから立場的には同等と考えられます。
「東」「西」はただの布陣の位置関係
関ヶ原の戦いは家同士の戦いではなく、複数の大名の連合による戦いですし、全国の大名が参加していますからそのすべてを表記するのははっきり言って面倒。
おまけに豊臣家の家臣という立場は同じですから「征伐」というのもおかしい。どちらも豊臣軍ですから、どうしたらいいか。
そこで簡単にわかりやすく「東」と「西」で分けたというわけです。
一連の流れから見ると東西で分けられるほど単純ではなかったりするのですが、わかりやすくまた馴染みやすいという意味では正解だったのかもしれませんね。