豊臣秀吉の死因は天ぷら?はウソなのか?

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サルの異名を持つ豊臣秀吉。

数奇な運命の元、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死因は何だったのか。

戦国時代を生きた名将の生き様を探ります。

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豊臣秀吉とは、どのような人物だったのか

豊臣秀吉は出生に関して謎の多い人物とされています。

家は足軽であったまたは農民の出であるなど、伝記自体が少ない武将の一人です。

幼少名の「日吉丸」も本当であるかが疑問視されています。

片手に指が6本あったとされ、背が低く目が大きく、謁見した朝鮮使節は秀吉は「サル」のようだと話したといいます。

秀吉本人も自分の醜さを自負していたが、戦国大名となったことを誇りにしていました。

織田信長の家臣として仕え、低い身分の出ながら人の良さや、度量の大きさから瞬く間に出世を遂げます。

ですが、信長からは「禿げ鼠」と呼ばれ、馬鹿にされることもあったとか。

1582年に信長が暗殺されると、自ら権力を握り1590年に伊達政宗を配下に納め天下を統一します。

やっとの思いで天下を手中に入れた秀吉でしたが、跡取りとなる子供や親族の病死、懐刀と言われた千利休を切腹させるなど近親者に恵まれませんでした。

天下人となった秀吉は朝鮮へ出兵してみせますが、2度にわたる出兵は尽く失敗に終わります。

不幸の連鎖は止まることを知らず、本拠としていた伏見城が地震で倒壊。

伏見城倒壊を天意とみた民衆に、秀吉は1598年醍醐三宝院にて盛大な花見を催します。

それでも吉事とはならず、秀吉は病床に伏してしまうのでした。

豊臣秀吉の死因は天ぷら?説は本当か。

天意を払拭しようと盛大な花見を催した秀吉でしたが、病に倒れてから数年のうちにこの世を去ってしまいます。

秀吉の病状は下痢・腹痛から始まり、食欲不振を訴え見る見るうちにやせ衰えていったようです。

戦国時代にあって秀吉は長命の類に入る武人でした。

年齢的な事を考えると、持病が悪化しての合併症ではないかとの説が有力視されています。

ではなぜ秀吉の死因が「天ぷらによるもの」と言われているのでしょう。

好物であった天ぷらで死んだとされるのは徳川家康です。

徳川家康は鯛の天ぷらが大好物で、病床に伏しても口にするほどだったと言われています。

秀吉の史料は家康によって殆どの物が破棄されました。

秀吉と家康の病状が似ていたことから「天ぷら」が原因で死んだとされたのです。

まとめ

豊臣秀吉の死因は天ぷらというのは根拠のないウソ話になります。

史料が残されていないため色々な死因説がささやかれているわけです。

ですが秀吉はかなりの美食家で通っていたようで、晩年は貧しい時代によく食べていた「麦飯」を好んでいたようです。

日に日にやせ衰える姿を想像すると、今でいう癌が原因で亡くなったとするのが一番納得できます。

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